【映画『犬王』】完全初見感想

めっっっちゃよかった……
めっっっっちゃ好きだったんですよ……聞いて……

はじめに

鑑賞済みの方向けの感想になります。
5.28に封切りしたばかりなので映画館で是非。

  • 人と妖が混ざり合って暮らしてるような時代
  • 映像美と音楽で高ぶりたい
  • コンサートやライブで推しを見上げる気持ちがわかる
  • 友情と名づけたら矮小化してしまいそうに感じるほどの個と個

上記が好きな方には何かしら琴線に触れるんじゃないかしらと……!
公式サイトはこちら

語り始める前に

  1. 完全初見
  2. 歴史詳しくない
  3. 台詞や歌詞のうろ覚えあり
  4. 制作陣や識者コメントも現在シャットアウト中

という状態での個人の感想です。
④は何故かと申しますと、自分だけの体験を自分が言語化する前に、他の人の意見や感情が混ざってしまうことを避けたかったからです。(なので落ち着いたら見ます)
ハッシュタグで検索すれば賛否・解釈・考察いくらでも読めてしまうだろうこのSNS全盛期時代。詳しい方の歴史解釈を読めば私はさもそこを踏まえているかのような知ったか発言をしそうだし、もし今イチという意見を聞いたならこの「好き!」を言うことに一瞬躊躇が生じるかもしれない。そうなる前に、
まず自分だけの感覚で喋って考えを固めたい。
そういうことをしたくなる映画だったんです。

以下つらつらと。ネタバレ注意

最近しょっちゅう壇ノ浦を見てる気がしますが、安徳天皇入水のくだりは何度見ても胸が痛い。しかし箱にくくりつけられてるバージョンは初めて見ましたね……
『壇ノ浦の海域で、源平合戦の遺物を拾い暮らして60年』の集落。それを踏まえて最初「何かあったか」「ない」という会話を考えると、その地域に人が集まって、一時期栄え、今は衰退しつつあるような漁村なのかもしれないと思いました。決して裕福そうには見えないし。

『秘宝を見つけた現地住民』は秘密を守るため殺されるのが定石なのでは……とひやひやしながら頼もしそうなお父ちゃんを見守っていたところ、剣を抜いた瞬間のエフェクト描写に「あっ好き……!」となり、直後のスライスに「ひい」ってなりました。持ち主まで切れるのは剣としてどうなの!!?選ばれし者(=天皇)しか抜いてはいけないみたいな理屈なの!?
剣を抜いた瞬間の光の一閃、冒頭で一番好きな描写です。あれは神器が神器たるゆえなのか、それとも平家の呪いなのかしら。

夫を失い、息子が盲になった母親が嘆きに嘆いて恨むのはわかるんですが、父ちゃんまでえらく饒舌な幽霊になって恨みを口にするのはちょっとふしぎな気がしました。平家の恨み(遺物)を糧に生計を立ててきた彼等の一族だからこそのあれこれなのかしら……いやまあ、完全に割を食って死んだんだから当然か。

足袋姿になった少年友魚がめちゃくちゃかわいい……
ここからしばらく、環境音を意識させるようなカット→雨音、梢のざわめき、風……と、音で見えてくる世界の表現が素晴らしかったです。友魚は光と色はうっすら識別できるかんじなのかな。琵琶法師が勢ぞろいして弾き語る様子、お坊さんが一斉にお経唱えるときの迫力を思いだしてぐっときました。好き……

谷一との出会いを経て琵琶法師になり、都に入るときの音の表現(馬の足音→ぎゅ、ぎゅと何かが軋む→米俵の音→米粒がこぼれる→それを雀がついばむ)の表現もすごくよかった……賑やかな都の音にそっと後ろで微笑んでいる友魚もかわいい。友魚は、自分の喜怒哀楽をあまり他者に伝えようとしない。必要がないと思ってそう。

谷一、いかにも人のいい、気のいい琵琶法師だけど、それだけじゃなくてずっと内側で考えてる人なんだろうな。後半ずっと沈黙を通して、酒も飲まずにひとり憂いた顔をしているのが気になっていたけど、あれは気に入らなかったからではなく、先を心配していたんじゃなかろうか。でも賢いから言ったところで魂の燃焼を止められやしないこともわかっていて、だから沈黙を選んで、身を呈して、何も伝えずただただ愛情の余韻だけ去って行った……というのが私の印象でした。

犬王が生まれて即座に叩き殺されなかったところ、あの姿で街を駆けまわっても差別の果てに殺されることはなかった(祟りを恐れてできなかったのか?)あたりが一番「ああ暗がりの多い時代だったんだな」って思ったところでした。
赤子の頃に殺されなかったのは、父の命かもしれないけども。

『人ならざるものに加護を希った結果、代償として妻の腹に宿った赤子を魔に差し出す』という、父の業を背負う過程は手塚治虫の『どろろ』を思いだすんですけど、百鬼丸はその鬼将を倒すたび自分のパーツを取り戻していくじゃないですか(※その分、領地への加護も消えていく)
犬王の場合はあの化外の存在に捧げられた赤子だけど、地にあふれる平家の怨霊を成仏させていくことでひとの形を取り戻していく。あの能面と怨霊の相互関係がまだよくわかってないです。邪悪な能面が何なのかもわからない。ふわっとした認識で許されるところかもしれませんが、原作小説読んで判明したら補記しますね。まだわかららない。

そして出会って数年後(推定)、すこし年を重ねただろう犬王と同じくオールバックで袈裟姿の友一のシーンが好き~~~!!! 友一、そのデザインすごくいいよいいよ~~~最初誰かと思った!!!!
小さくなった亡霊ととさまが出た瞬間、映画館で「ふふっ」て声が出たし、周囲も「おっ」「ふふっ」という小さなざわめきが出たのがよかったです。

この映画、人の中に常にあり続けるだろう苦悩や葛藤や煩悶や怒り、転じて喜び楽しみなど、つまるところ内心をあまり言葉で説明させず、一瞬の反応や表情、短いやりとりなどの「外側」を見せるだけで見てる者に推し図らせるところがすごく好きです。

そんな中、唯一といっていいほど「激しい悩み、苦しみ、渇望、嫉妬に怒り」を表現してるのが、究極の美を追究し続けた犬王の父だけというのもなかなか思わせぶりです。
犬王も友魚も、作り手の苦悩や苦労や努力を一切見せずに次々やってのけるんですよね。いくら天才だろうと、情熱をもって楽しくやっていようと、あの大仕掛けは絶対にひとりでは出来ないものだから、打合せ・設計・人の手配ひいては人間関係のあれそれ色々あっただろうに、ないはずがないのに、そこを意図的に描写していないという……作り手は出来たもの勝負、夢を見せるのが矜持だよと言わんばかりの。

◆友魚(友一・友有)について

琵琶法師が『他者の物語を語る存在である』ということを差し置いても、友有は言語化が難しい感じに特殊だと思う。存在感で言えば犬王が派手且つ特異なんですけど、友有はこう……主体はあくまで「俺」としながらも、常に「犬王の話を語る」ことを葛藤なく是としている。稀代の表現者であろう犬王に対して嫉妬もなさそう。なぜなら犬王の話を語ることが、自分自身であることの表明でもあり、他者とつながる術でもあるから……みたいなかんじだろうか(言語化中)

この人ずっと、「見届けようぜ」「俺“たち”で」「見てるんだろう」「見届けようぜ」って誘い手まねき続けてるんですよね。ずっと外側へ向けて呼びかけている。俺が俺が、とはならない。ずっと「俺たち」と言い、「犬王が」であり、ひっくるめて「俺たちの話だ」という。「私の座の者たちがひどい目にあっている」って言い方も、所有ではなく大切の証左ゆえだと感じました。
この作品は犬王と友有の物語なので他をばっさり省いているけど、語られなかっただけで繋がりがちゃんとあったことが言葉の端々に感じ取れる(気がする)(私の見方です)

一番「ああ、これがこの人なんだな」と思ったところは、精神世界へ潜ったときに「俺の話はもういい。犬王の話を」ってものすごくあっさり言ったところ。あれはすごい。ほんとにすごい。苛立つでもなく諦めるでもなく自嘲でもなく「どうでもいい」でもなく、本当にそのままの意味で「俺の話はもういい。犬王の話を」だった。すごい…

最期の瞬間に彼が立ち返ったのは「友魚」であり、生まれもまたまぎれもなく彼を構成する一要素であり、数多の呪縛は彼を掴んで離さない、強い、強いもので。
それでいて、600年の果てに彼を解き放ったのは彼が自分で決めた「友有」の名と、生きている間に結び、死んでも消えなかった、別個の魂との絆だった……っていうね。泣いちゃうよそんなの……

◆犬王について

犬王はなんていうか半分くらい依り代であり巫でありアイコニックなアイドル的存在だと思ってるので(実際、完全に人の顔を得る瞬間まで、そういう描き方をされてると思った)、先にそこについて語りたい。
つまり歌ですよ歌。

アヴちゃんの歌がす~~~~~~ごい よかった……
『鯨』のあたりなんて完全にライブを見に来たファンの気持ちでした。
「うおおお犬王~~~面白いもん見せてくれ~~~~!」だった。

音楽に詳しくないのでそれぞれの曲がどういうものかを知らないのですが、どれも全然違ってどれもよかった……独言ののびやかな独唱、腕塚の今時ポップな曲調、民謡風の、友有と歌う竜中将の神がかって響き渡る高音。歌が…歌がうめえ~~~~URLから視聴できるのでちょっと聞いてきてください。特に鯨!アフィじゃないので!

理屈抜きで説得力があるものを、ひとは美と呼ぶのではないだろうか

犬王の内心描写は友魚よりもっともっと少ない。父との確執についても、犬王からの心情はほとんど出てこない。けろりとして見える。でもこれは気にしてないとか、押し殺しているとか、メンタルつよつよという話ではなく、犬王は「亡霊の話を聞く」存在として人より自分自身に執着して考え続けるということをしないんじゃないか……?という印象でした。勿論思うところはあっただろうし、自我が薄いわけじゃない。むしろ強い。でも他人を容れるための場所がある。半分くらい獣の無垢。だからあの「明るくて賢くて対人コミュニケーションもそつなくできて、情だってあるのは見てればわかるのにふしぎと透明なかんじ」になるのかなと思う。
魔に捧げられた生贄。神魔の依り代。シャーマンだから。

そんな彼だからこそ、天皇の前で面を外して舞え、と言われたときの「琵琶と共に」という台詞。その短い一言に含まれる信頼と重さと想いよ……

犬王が犬王であった物語はあの最後の舞台で終わって、魂の半身である琵琶を喪い、彼の物語も封印され、「人としての面」を被った。この後はただの「人」として生きたのではないかな……と思わせるような無音の終わり方だった。

だからこそ

だからこそ最後でだばだば泣けたんだよ~~~~~~600年探してたのか……あの若々しい明るい声音! 人と獣の中間だった頃の無邪気さを取り戻して、きっと「そのうち絶対見つかるだろう」って思い続けて600年探し続けてたのか……思いだしてだばだば泣いちゃう……諸行無常に終わったかにみせかけての圧倒的ハッピーエンド……

◆劇中曲『鯨』がめちゃ好きという話

民謡風でややスローテンポ。
覚えやすい同じフレーズを繰り返させる、
いわゆる「観客と一緒に歌うための曲」だと思うんですけど、
シンプルな歌詞だからこそ初めてでも聞き取りやすい。

「鯨は来なかった 鯨は来なかった」
「千尾万尾待っている 百年待っている」
「ずーっと待っている いつまでも待っている」

書き起こしてみれば、なんて平易な歌詞!
同時にその平易な歌詞が示す意味の重さ。

負けた側が、もうとっくに負けて海へ沈んだ側が、
それでもなにかを、勝ちを信じて
報われないままずっと待ってる歌なんですよ……

しかもその時の映像演出が素晴らしい。海の底で歌いながら待ちながら私たちが見たのは、背中に犬王を乗せ、時折水飛沫を上げながら駆け上ってくる大鯨のシルエット。きっと今にも来てくれる、やっと来てくれた、報われるんだと思えるような黄金の海原を幻視するんです。

来ない、来ない、でも信じているよと歌う人たちのところへ、鯨はとうとう来てくれる。明確な鎮魂、亡者たちのための歌。成仏する亡者の気持ちに同調してしまう。
泣いちゃうよそんなん……

◆二人について

視聴者のために「これこれこういうエピソードがあったから二人は仲はいいんです」みたいな、くどいシーンは入れないところもよい。ただただ分かり合ってるんだと理解するしかない。

ゆうて絆の描写はいっぱいされてるんですけどね!
「俺の話はもういい、犬王の話を」から一連とか。
「琵琶と共に」の一言とか。
自分が見たものを当然のように相手も見ていると確認しあえるところとか。
同じものが見えている。互いが互いの無二の理解者で、それでいて常にべったり傍にいるわけではない、と……魂の理解者であり、在り方の肯定者。

◆最後に

感情曲線としては「あ、好き……」→「なるほど。ライブ見るような感覚で観ればいいんですね!? 了解了解」→「待って、ちょっと待って、これ私が一番好きなやつじゃーーーーーん……!(号泣)」と言う感じでした。
いやもうほんと、最後の最後で狙い撃ちにされた感じ……蒼天航路のラスト「水晶を探しに行こう」で爆泣きした私ですと言えば分かる方にはわかるかもしれない。

CDとストリーミング配信の値段が同じだったのでサントラを買いました。
ついでに原作も買いました。これはもう一回映画見てから読みます。
はやく届かないかな……

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